エベレスト40周年を振り返って(2010年3月7日大塚博美)

エベレスト40周年を振り返って

ヒマラヤの黄金時代は、ネパールが開国した1950年に、仏隊がアンナプルナ(8091㍍)に人類初の登頂の偉業を成し遂げて幕が開けられた。

8000㍍14座は、1964年までにすべて初登頂された。

最高峰のエベレスト(8848㍍)は英国が1953年に33年ぶりに南側から宿願を遂げ、そして日本も1956年にマナスル初登頂の足跡を登山史に残した。

(社)日本山岳会の次なる計画は、エベレストの南西壁であった。

1966年の登山許可はネパール政府の登山禁止令によって1969~70年に延期され、その上スキー滑降映画の撮影隊とサウスーコルまで同じルートを採らざるを得なかった。これも国王の万博向けのプレゼンテーションともなれば、お互いに協力しなければならない。計画段階での大きなハプニングであった。

計画:3つの隊で構成。1次偵察、2次ルート偵察、本隊。

目的:南西壁を登攀し登頂する。南東稜はこれのサポート隊とする。

編成:1次藤田L、植村ら4名。4年間のブランクの現地、山の状況など。2次偵察宮下L、田辺、小西、植村、医療・大森ら8名、他報道4名(毎日、NHK)

両隊共に成果を挙げる。特記すべきは秋の南西壁を8000㍍まで登攀した事である。小西の異才に負うところ大であるが、リーダー陣の手腕も見逃せない。本隊の南西壁隊の準備にとってどんなにか心強く役立ったか計り知れない。

本隊は松方L、大塚CLら30名報道9名(毎日4、NHK5)総計39名の大部隊、これは2つのルートであるからだ。

隊長の意向から会員に対して隊員を公募した。100名を越える応募者があった。数名しか選抜されなかった。

シェルパ、Lポーター約50名。荷物総量30トン、キャラバンポーター約1000人。3隊で総額1億円。

特に南西壁登攀用の新考案の酸素器具、壁のテント台、クレバス用のジュラルミン梯子、羽毛類の服、寝袋、高所靴などの装備、食料、医療、気象など年末船積みに向け不眠不休の大忙しであった。忘れてならないのは資金の調達である。隊員の個人負担も一人30万円、会員募金、後援金、企業募金(経団連協力)、物品食料の寄贈願い。マナスルの募金活動の体験を基に加藤本部長、松田、中島寛事務局長らが纏め上げたが、松方隊長が後始末のため一ヶ月遅れてBC入の状態であった。

「登山の実施」

1ステージ 325~412

アイスフォールの突破と荷揚げ。4月5日、立ち上がりで大氷塔の崩壊でスキー隊のシェルパ6名が埋没、遭難する。前後にJAC藤田班、松田班と交々同じルートを登るが、紙一重の差で難を逃れる。「足元の氷塊が揺れ動く中を逃げ回った」と、藤田は恐ろしい模様を述べていた。

5月に入ってJACのハイポーターが下部でブロックの崩壊で頭を打たれて埋没する。救助するが駄目であった。ナムチエ出身のいい人間だった。ツクラで荼毘、奥さんと子供3人、痛恨事、言葉なし。このアイスフォールは登山ルートではない。危険を覚悟の上での登山だ。

秋の2次偵察の時、シェルパがアイスフォールから遺品を拾ってきたが、そのアノラックの腕に星条旗のワッペンが着いており、1963年の縦走に成功した米国隊のブライテンバッハのものであることが分かった。7年経って発見されたのだ。

2ステージ 413日~428

南西壁8000㍍到達、南東稜サウスーコル到達と荷揚げ。

隊員、シェルパ共に高度障害が出て不調相次ぎ戦力ダウン、隊員のスリップ事故などもあり、スケジュール10日遅れ。

成田潔思隊員(28)の心臓麻痺による急死。若く頑健なホープの一人だったが、驚天動地だ。それは4月21日のことだ。成田は、BC入りから風邪を引き馴化行動が遅れたが、アイスフォールを無事通過し、14日にC1(6150㍍)入り、荷揚げの拠点で仕分けの仕事を手伝い、住吉ドクターに自分も上に登らせてくれと懇願する。この日は空身でシェルパとアンザイレンしてABC(6500㍍)往復へ。ここで私や隊員に元気に挨拶して下っていった。6時の夕食時、成田始め6人は住吉ドクターのテント内で食事を始めたが、成田は余り食欲がなくおじや半分、皆で楽しく食べていたが俄に容態変化、成田と呼ぶも反応なしで呼吸停止、直ちに酸素吸入などあらゆる施行するも8時50分死亡確認。成田の遺骨は井上、堅野の手でムジュンの松方隊長へ。さらにヘリコプターでカトマンズへ、宮下2次偵察隊長に付き添われた成田の父上に手渡された。

松方隊長から励ましのメッセージを頂き、修羅場で仏に出会った気持ちになる。「・・・まだ日にちはある、焦らずにじっくりと・・・」この切所に立っていいささかもたじろがず、ふんばってやろう、成田の冥に応えるには登頂しかない。

3ステージ 54日~512

南西壁登攀続行、南東稜登頂。

1次~2次とも散々の目に遭い、打ちのめされしごかれた。

荷揚げ管理のロジステックは混乱し、隊員は半数、シェルパは1/3ダウン。ドクター側から更なる休養の強い意見があったが、私は酸素の積極使用での短期の決着方針を採った。

南東稜代1次登頂者、松浦、植村、サポートは河野、シェルパ5、第2次はABCにて発表。

南西壁、小西Lら8名、5月20日まで。

小西の登攀メモ「逆層でグレード4級ぐらい、極めて悪く落ちそうになる」

加納のメモ「順層で快適なクライミング」

と、複雑なルートを物語っている。

5月10日、C4(7500㍍)から加納、嵯峨野は酸素を使いザイル9本(900㍍)を持って登る。乱雑な45度の岩場、アイゼンを脱ぎ素手で登る。行く手に高さ10㍍、長さ100㍍位、魚の背びれに似た岩峰の左雪田に入る。(2次偵察は右に入る)トップ嵯峨野に代る、それほど難しくない階段状態の岩場を左にトラバース気味に登って3ピッチ伸ばすとザイルが無くなった。C4に下ると田村、中島がC3から登って待っていた。状況説明の時、落石が中島の右膝にぶつかり負傷。「しまった!」と無念の思い。加納も下山中にC3付近で腰に落石の打撃。有望な2つのパーティーを失う。

5月12日、東南稜の完全登頂をもって南西壁の断念を宣言する。

南東稜の登頂。5月11日、松浦・植村は快晴に恵まれC6(8450㍍)6時10分スタート。頂上まで3時間、以降順調に下り17時30分、ABCへ。12日、平林・チョタレ無事登頂。ネパールに敬意を表す。

結び  JMEE’70の残したもの

第一目的である南西壁登山の失敗、事業(6番目の登頂国、後援社など)としての成功。一言でいえばこうなる。登山には、「たら、れば」はない。同じ釜の飯を食い、厳しい体験を共にした友人を持った事、これを持ち帰ってそれぞれのグループの肥やしとした。小西政継、植村直巳がその一番のモデルではないか。

JMEE’70登攀隊長 大塚博美

2010年3月7日執筆

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